毎日このブログを書いてもう一週間になるのか.

はじめは転職のためにいろいろ企業のことについて調べたことを書いていくつもりだった(これからもそういうもがあれば書くべきではあると思う)けど,気が付いたら自分のことを見つめなおすブログになってしまった.

でもやっぱし本当に自分のやりたいことを仕事としてやるためには,自分の内面的なものをひとつづつ折り合いをつけるってことが必要なんだとおもう.というか,志望動機とかそういうの書くのに,自分のことがわかんないのは,大変だし.

 

仕事でやりたいことを考えるってことが,必然的に自分のやりたいことを分析するってことになっていたのはつまり,

やっぱり自分は全力でやりたいことを全身全霊貫きたいって気持ちがあったからだと今気が付いた.

 

 

ゆとり世代

とかって言われると,”協調性がない”とか”プライベートを大事にする”とかっていわれがちだけど,少なくとも自分にその性質は当てはまらない.

今まで生きてきて,なんとなく感じる初対面での相手の反応からして,自分はそういう風に思われてきたんだなって,自分の第一印象はそういう性質なんだなって,気が付いたら理解してた.

 

僕のブログというか,このNemoという名前は,自分の本名が嫌なのもあるけど,

「誰でもない」

っていう意味だから.(某不思議の海のファンの人とか,熱狂的SFファンの人なら,この意味は知ってると思う)

 

ゆとり世代であるか,ミレニアム世代とかにかかわらず,

というより,世代とかじゃなくて

自意識を持つすべての人に当てはまることだと思うんだけど

 

自らが”誰であるか”ということに囚われることが,その存在にとって一番の愚かさであり,苦悩であると思う.

 

自分は○○世代だからとか,今までこうしてきたからとか,この業界はこうだからとか,こうすると何か良くないことが起こりそうだからとか,

”誰か”

であることによって本当はどうするべきかってことから目を意識/無意識にかかわらずそむけてしまうことが,僕を含めすべての自意識をもつ存在に当てはまることだと思う.

 

だから,

このNemoという名前は,それ自体が矛盾している.

誰でもないことを名乗ることによって,自分という社会的なり集団の中の個として与えられた役割なりから与えられたバイアスを超越しようという意思の表しているんだけど,それはすでに”Nemo"という人はどうあるべきかっていうことがすでにその存在にバイアスとしてかかっていることになる.

 

GNUとか,再帰的に名前の一部を繰り返すようになっている言葉遊び的なものとしてオープンソースとかハクティビズムとかに出てくる言葉にはよくあることだけど,

Nemoは再帰的な矛盾が滑稽であることを楽しむんではなくて,

 

どんなに自分という存在にとらわれないよう努力してもなおそれを絶やすことをやめてはいけない

 

っていう戒めみたいなものが込められていると思う.これは社会人になってから気が付いたらいろんなとこで名乗り始めた.

 

そうか,だから

自分がいまとらわれている,

これきついのにこうしなきゃつづけなきゃいけないとか,

本当はこういう人間になりたいけどあきらめなきゃ前に進めないとか,

そういう思考にとらわれている理由をずっと探しているってことなのかもしれない.

 

自分がなぜそういう自分...”誰であるか”というものを無意識的に作り上げてしまっているものを分析することは,

Nemoとしてその”誰であるか”の牢獄から初めの1ループ目を抜け出すためにはまず一番初めに必要なことなんだ.

 

 

 

 

 

うん.

自分が本当に輝ける環境ってやつに進むためは,やっぱり今まで無視してきた感情だとか,気が付いていたけど閉ざしていた自分の弱さを一度全部ひっぺがしてみなくっちゃいけない.

正直,つねられたときみたいなことをあんまりコンスタントに思い出したくないけど,自分が本当に進みたいもののために,明日はそれについて分析してみる.

 

やっぱり,恋愛できなかった理由とか原因とかから始めるべきかな?笑

鬼は外・福は内.